司法試験を目指す受験生の皆様へ(6)~新人弁護士の実力が伸びない理由~
1 成績は優秀
うまく伸びていかない弁護士が、司法試験で決して下位の成績で合格しているわけではありません。むしろ中位から上位と呼ばれるほどの順位で合格してきています。また、おしなべて法科大学院では成績優秀であったというのです。私立の法科大学院であれば学費免除や減額を勝ち取ってきています。にもかかわらず、弁護士としての実力が伸びないのです。
前述したとおり、私は、新司法試験の構想から見て、決して基礎力の不足を責めるつもりはありません。司法試験合格は単なる通過点です。理解不十分や認識不足の点も多々あります。そして、その不足部分は、OJTでさらに実力アップしていけばいいのです。できていない基礎があれば、あらためて勉強すればよいと思っています。
法曹養成を、川に橋を架けることにたとえるなら、橋をかける橋脚の基礎杭が川に打ち込まれ、その橋脚に橋げたが乗って橋が架かる。そして、その橋を車や人が行き来する。その橋自体が実務家だとすれば、司法試験合格時点では、とりあえずの橋げたがかかっているか、あるいは、橋脚だけでも川底に打ちこまれていればよいと思っています。
プロになる限り、一生勉強を続けていかなければならないのですから、基礎能力が不十分であったとしても、OJTで経験を積むうちにその能力は十分にそなわってくるはずです。だから、司法試験が求める基礎力さえあれば、OJTによって十分仕事はできるはずなのです。しかし、なぜか、その基礎能力が一向に伸びていかない現実があるのです。
2 OJTの方法の問題点
なぜ、OJTで基礎力が伸びていかないのでしょうか。ひとつは、私が行ったOJTの方法に問題があったことが考えられます。弁護士は、法律事務所のなかでは指導を受けている身ですが、電話や面談に出た段階から一人前のプロと扱われます。そこでは、「弁護士」であるとして対応しなければならないのです。「新人弁護士」であろうと「経験豊富な弁護士」であろうと、「弁護士」として活動する限り、電話一本でもプロフェッショナルな対応が求められるのです。世の中は厳しいです。プロフェッショナルとして登場する以上、善良なる管理者の注意義務として、高度な注意義務が課せられており、万一、初歩的なミスが発生してしまえば、弁護士はそのまま窮地に立たされてしまいます。
自動車運転であれば、仮免許があり、指導教官が隣に座り公道を運転します。しかし、その仮免許運転は司法修習の時代で終わっていなければならないのです。法律事務所で仕事をする限り、もう公道で運転しているのです。初心者マーク(若葉マーク)を付けて走って公道を走行するのは自由です。しかし、若葉マークだからといって交通事故が発生したときに、その過失が軽減されるわけではないのです。それと同じ論理です。そのため「弁護士」としての基礎力が付いてくるまでの間、法律事務所としては大きなリスクを伴うことになります。そのため、新人弁護士が作成する書面等については、慎重には慎重を重ねてチェックをすることが求められます。しかし、他方で、弁護士は相手方と交渉したり、訴訟においても主張を戦わせたり、相手方と対峙する「いくさ」に出なければなりません。代理人となって活動する以上、プロとしてその言動に責任をとらなければなりません。OJTは、公道を走行するわけですから、公道に出たときの留意点をしつこいほどに叩き込まなければなりません。
弁護士の仕事は、公道走行といっても、いくさ場です。いくさである以上、気持ちで負けたりしないように、事務所のなかで突き詰めて考えたさせたうえで、「いくさ」に臨む意識を叩き込まなければなりません。「サムライ」としていくさにでるための力を養ってもらわないといけないのです。そのため、法律事務所のなかでは、議論を戦わせ、とことん考え抜いたうえで公道に出ないといけないのです。現在の若者は、とても優しいですし、自信もありません。怒られたこともあまりないと言われます。そのため、私の指導方法が、最近の若者に対する接し方として、問題があったということかもしれません。相撲のぶつかり稽古は、通用しないのかもしれません。その点は反省しなければなりません。しかし、ほんとうにそれでいいのか、弁護士の育成としてぶつかり稽古はしなくて良いのか?と問われると甚だ疑問ではあります。
3 OJTで伸びない理由―本人の自覚―
2年も3年も法科大学院で勉強をして、司法試験を合格してきていてOJTでも伸びない理由は何なのか。私は、そのひとつに、基礎能力が不十分であることを「本人が自覚していない」からだと思っています。司法試験に合格したかといっても、もしかしたら基礎能力が十分にできていないかもしれないと思っていてくれれば、スポンジが水を吸うように基礎的な知識や考え方がはいっていくように思います。OJTの過程で、日々の仕事をこなしていれば、法律調査や文献の調査、先輩からの指導などで、さまざまな事案に対応していくなかで基礎能力は十分についていくはずなのです。しかし、もし本人が、自分には十分な基礎能力があり、もしかして基礎能力ができていないのかもしれないということを微塵も考えていなかったらどうでしょうか。あるいは、そう言われるから、もしかしたらそうかもしれないとは思いながらも、その基礎能力っていったい何のことなんだろう、と全く考えたこともなかったとしたらどうでしょうか。本人は、自分が考えている思考方法が、どの弁護士もとっている法的な思考方法であると認識して、そのまま長きにわたって法律を取り扱うプロとして仕事をしていくことになるような気がするのです。
毎年、法務省は、司法試験の採点後の「実感」を公表しています。どういう答案が理想で、どういう答案が優秀であるか、どういうことを書いてきた受験生がいたか、その許容範囲はどこまでか等、採点をした司法試験委員の採点の感想が述べられているのです。しかし、それを読ませていただく限り、「まあ、この程度で合格にはしましたが、基礎的な理解をしてもらっていたら、こういう答案にはならないのですよ。」と、そういうメッセージが各科目の問題ごとに書かれているように感じます。司法試験委員は、明らかに、「基礎不十分」と判断した受験生でも合格している実態を十分に認識しておられると思うのです。だから、新人弁護士は、合格したあとこそ、この実態に目を向けて行く必要があるのだと思います。
4 OJTで伸びない理由―その2―
法科大学院の教育に一時でも携わった者として言わせてもらえば、法科大学院の教育は、従来の法学部の教育に比べて、カリキュラムが整い、時間を遵守し、教員は、すべての基礎知識を網羅した指導を施し、また、それを双方向教育と銘打って行っている。その教員の努力たるや、敬服するほかないものです。にもかかわらず、なぜ、それを受ける学生に基礎力がついていかないのでしょうか。これはあくまで私の推測であり、実証をしたわけではないのですが、実は、法科大学院に潜んでいて表面には出てこないが、明らかに存在している「理解しないでも、この程度やっていれば合格する。」という共通認識であるような気がしています。
法科大学院の教育がどのように充実していて、教員が学生にどれほど熱意をもって教育していたとしても、聴く側、受ける側が、「この程度」でよいと、理解に寸止めをしている状態では、その教育は成り立ちません。どれほど分かりやすく、どれほど高度な教育を施したとしても、どれほど双方向で議論をしたとしても、受ける側が、理解に寸止めし、伸びようというマインドを持ち合わせていなければ、基礎的な能力などついていくはずがないのです。
法科大学院では、自分は優秀だと認められていた。学費も減免され、あるいは奨学金を受けていた。しかも、司法試験に素晴らしい成績で合格したと評価された。でも、なぜ弁護士になって実務についたらこんなにも基礎的な点を指導されるのだろうか。そして、基礎を勉強するように指導されるのか。わからないのだと思います。「この程度」のマインドで勉強して合格したのですから、「この程度」マインドで、実務もきっと動いているのだと錯覚しているからではないでしょうか。確かに、それも若者の意識のひとつとして譲って理解しましょう。しかし、プロフェッショナルになることが夢ではなかったのでしょうか。弁護士として人権の擁護と社会正義の実現を実践してみたいというのではなかったのでしょうか。プロフェッショナルとして仕事をする以上、「この程度」でよいなどという発想では、仕事は続けられないのです。どうしたらこの事件を解決できるか。どうしたらリスクを最大限回避できるのか。プロは、ベストを尽くして最高の品質のものを提供しなければならないのです。この程度でよい仕事をするというマインドなどはないのです。それは分かっていただきたいのです。
弁護士として活動する限り、「基礎部分」を理解しておかないと、仕事が前に行かないことはわかってほしいのです。プロとなって、受け身側から提供側になって仕事をしていくのですから、この程度マインドは捨ててしまってほしいのです。そうでないと、司法試験を受験したいと法科大学院に入学したときに描いたプロになると夢をかなえることができないのです。これを理解出来ない限り、先輩弁護士が何を指導しているのかわからないと思います。そして、そのままのマインドで仕事を続けると、弁護士の「ような」仕事を続けていくか、あるいは、単なる「法的手続」をしているだけのプロとして生きて行くほかないと思います。法律家として、何の判断もできないプロになってしまうと思います。
ですから、「この程度」でよいと自分に寸止めをしているマインドの人は、ぜひ、このマインドを切り替えてほしいのです。
5 司法試験の勉強方法の問題
私のOJT失敗の理由のひとつに、私は、司法試験に合格した以上、少なくとも司法試験の問題は、理解して、解いたうえで合格してきたものだと思っていたということがあります。その基盤があることを前提に指導を重ねていたのです。しかし、司法試験の合格順位が高くても、決してそうではないのだということがわかってきたのです。法科大学院であれだけの教育が実施され、勉強時間を費やしているのだから、まさか、川には橋脚も打ち込まれておらず、なんとなく橋けたのようなものを川に渡しているような状態だとは思ってもみなかったのです。そんな状態であるとは露知らず、私は、新人弁護士に対して、人や車が通る際の状況や、どうやって人や車に渡ってもらうかについてまで、熱弁を奮って指導してきたように思います。でもその指導の半数は虚しく響いたということなのです。まさか、そんなに基礎ができていないとは知らなかったのです。基礎があると思って話していたのが、実は、まったくわかっていなかったのです。
それは、なぜなのでしょうか。今年、司法試験の受験生や司法修習生とこのことについて話して、だんだんと分かってきました。彼らは、司法試験を解いてこなかったのです。
解かずに、「その程度」書いていたらよいと勝手に決めて答案を作成し、受験をしていたのです。
2018.9.17
(井口寛司)